昭和46年06月10日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終りもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
例えばお相撲さんの弟子入りをするとするか、どうでしょうか、お相撲さんの弟子入りをするからには、もう自分は何時まででも褌担ぎでよいと思うて、弟子入りをする人があるだろうか、それこそ末は横綱は張れぬにしても、せめて大関ぐらいはと願って、私は弟子入りをするだろうと思う。信心させて頂いてもそうである。ここで信心はせんでもおかげはやってあると仰せられる。信心はしてもせんでも余り変わり映えがない、余り変わらん、そういうおかげでお互い甘んじておれるだろうか。
信心はせんでもおかげはやってあるのですから、折角信心させて貰うなら、信心させて頂いておる値打ちというか、いわゆる変わり映えというか、信心を頂いておるからこそのおかげをね頂かせて貰う事をね、願いとせねばなりません。それは相撲の弟子入りをする人が、お相撲取りになろうと決心したからには、末は横綱か、いや横綱になれんならせめて大関ぐらいになろうと言うような願いを持って、弟子入りをするような一つの大きな意欲を持たねばいけません。
信心はせんでもおかげはやってある。だから信心しておってもせんでも、さほどにも変わり映えの無いような事ではつまらん。信心頂いておるから成る程と思われる程しのおかげを頂かなければなりません。それにはそこに矢張り願いを立てなければいけません。もうこれ位でよかよかと、もうここのあたりこれ一ちょ頂けばそれでよかとね、つまらん小さい信心ではだめです。それこそ天地金乃神は昔からある神、だから天地は流行ることもなければ終ることもない。
だから流行る事もなければ終る事も無いのですから、成る程神様はいつも同じだから、その辺のところに腰掛けたような感じが私はあるように思うんですね。皆、金光様の御信者は、信心しよれば何時かはおかげ頂くじゃろう、金光様の信心しよれば何時かはおかげ頂くじゃろう、いつか芽が出るじゃろうちゅう、そして一生うだつのあがらない。いわゆる信心しとってもせんでも、然程に変わり映えのしないような事で終って終う人がどの位あるだろうか。
余り悠長に構えとる、流行る事もなければ終る事もない、いつ行ったっちゃ神様はござると言ったような、ですねまあいうならそう言う様な気分があるのじゃなかろうか。いつでん行ったと思うたら神様は同じちから働きをもっておかげを下さるのだから、ただ今大売り出し中という事であればですよね、大売り出しの時に買わなきゃ、また高いもん買わんならんけんと、わざわざ大売り出し目掛けて行くのですけども、いつでも安売りしござるけん何時行ったっちゃよか、と言うごたる気持ちかね。
私ども金光様の信者の中には、あるような気がする。それではね一生経ったっちゃうだつが上がらんです。いつか頂くじゃろう、それでは信心はせんでもおかげはやってあると仰しゃる、おかげの程度であって、信心しておるから成る程素晴らしい、輝かしいおかげを打ち立てられると言うことの、願いを立てなければいけません。私は願いが先か、いうなら信心が分からなければと。
こう言うお願いを願えと、吾が願う事ばっかりと言いますけどね、どうぞ信心を分からして下さい、信心を分からして下さいと言うて、成る程それは立派であります。けれどもその信心を分からして下さいと言う程度であるから、いつか分かるじゃろう位のことになってくるのじゃないでしょうか、実感かね、いわば神様へ肉迫するような思いで、信心が向けられる時には、どうでもこうでもおかげを受けんならんと言う時です。人間はですから私はおかげが先だと思う。おかげを願うのが先だと思う。
おかげが先か信心が先か、ちゃんと信心を頂きゃおかげがついて来る。成る程道理である。けれども私はおかげを願わなければ、しかも今日私が申します、信心させて頂いておいや頂いておるだけの変わり映えのあるおかげ、折角信心させて貰うならば、末は私は横綱でも張らして貰うと言う位な願いを立てなければいけんと思う。どうぞ段々おかげを頂くようになって、神様の働きの間違いのなさを、いろんな意味で分からして貰うた、けども、やはり難儀は続いておったけれども。
やはりそのおかげを切実に願う信心から、いつの間にか真実の信心を願がわして貰う気持ちが切に強うなって来た。やはりおかげを願うのが先だった。そして言わば神様の一番の忠義者に取り立てて下さいと、神様の一番喜んで下さる氏子に取り立てて下さいと、いうような願いを頂かして頂くようになった。どうでしょうか皆さん、せめて合楽、せめて合楽位は、それこそ一番の忠義者、一番神様に喜んで頂けれる、親先生に喜んで頂けれる信者にお取り立て下さいという位な願いをそこに立てなければおかしい。
実は私はおかしいと思うね。信心のある者もない者も余り変わらん位な、変わり映えのせん位な、おかげを願うたっちゃつまらん。その願いか根本にならなければ、末は横綱か大関かというようなです、願いを立てなければ。私は今日、御神前に出らして頂いて、一番はじめに頂いたことは、真っ白い饅寿をお三宝にうずたかく盛り上げてあるのと、やっぱり同じ格好に、ソーダ饅寿と言うのがありますね、黒いとか、茶色の黒い饅寿です。あれもやはりお三宝一台に盛り上げてあるところを頂いた。
どう言う事だろうかと、私は饅寿というのは万の寿と、例えばもじればその様に言えますよね。だからこれはお金の事だなあと思うた。まあ白の方のお万寿を信心を分からして下さいと言う、やはり清らかな信心という、そうでしょうね、おかげなんかは、信心が分かりたいと言う、おかげの事だろうとこう思う。黒い方の饅寿はいわゆる私どもが願っている本当の形の上に表れてくるおかげ、例えば金のない人は、本当に億万長者にならして下さいと、そして教団切っての御用奉仕が出来るようにとの信心を頂かして下さいと、黒のお三宝さん見てそのように感じた。
まあ今日は、そこから御理解を頂こうと思うたら、御理解第七節を頂きましたが、御理解第七節は皆さんいつも、それこそ繰り返し繰り返し頂いておる御理解でございますが、私が一番今日はここのところへですね、信心はせんでもおかげはやってあると仰せられるところが、私どもが信心をせんでも余り変わり映えのないくらいな、おかげではなかろうか、自分の程度を一っちょ見てみてご覧なさい。だから信心をしておるならば、しとらん者にでもおかげ下さってあるんだから。
信心をさせて頂けば、本当に成程信心しておかげを受けると言う事は素晴らしい事だなと言うおかげを、頂かなければいけないと今日私は気付いた。それがどう言うところから、そういう風に頂けるのかというと、どうもここんにきが悠長になっている。天地ははやることもなし、はやることなければ終ることもなし、と言うように教えておられるものですから、神様はいつ行ったっちゃござると言った様な感じである。そして何時かおかげは受けられるであろうと言ったような。
そして一生うだつが上がらずに済んで行くと言う様な信者があるのじゃなかろうか。いやそうだと私は今日思うた。力を受けるとか、おかげを受けるという、そのおかげを受けるなら、おかげを受ける姿勢を本気で作らねばいけない。例えばここでは相撲の例をとりましたから、先ず三十にもなったり、四十にもなったりして弟子入りする人はありません。やはり十代から二十代、一番はずめば、はずむ程力がつく時期がありますように、私ども信心もです、未だ自分の信心の若いとき、どうでもおかげ頂かにゃという意欲の強いときに、私は力を頂いとかねば駄目だと思うですね。
昨日は私の方の家内の父親になります、若くして亡くなっておりますもう四十五年、になるそのお立ち日でございました。それで夜の御祈念に合わせて家内がいろいろ心づくしのものどもを、お供えを揃えとりましたから、お供えをして頂いて、御霊様へ霊の御挨拶をさせて頂きました。私が家内と一緒になりましてこの方、このやはり昨日という日いわゆる父の御立ち日という日を大事にさして貰いました。もう大事と言う事もないけれども、心掛けさして頂いて。
亡くなるときに丁度今が枇杷のシーズンですね、果物の枇杷その枇杷がねもう大変な好物だったそうですが、その枇杷をもうこれは世界一に美味しいものだと言うて、頂きながら亡くなったと言う事です。美味しい美味しいと言うて、それで必ず六月の九日には、枇杷のお供えをすると言う事を聞いておりましたから、私も家内と一緒になってからこの方は、もうどんなに枇杷が高かっても、なかっても探して求めてでも枇杷のお供えをする。ないときには缶詰でも切ってでもお供えすると言う様にして参りました。
私共が、いよいよ修行が激しくなり、今が苦労の真ん中だろうかという時代が丁度福岡でした。以来ながらもう二十何年前の福岡の時分でございましたが、枇杷を買わして頂こうと思うけれども金はないですから、まあ果実屋に参りまして見てみますと立派な枇杷が出てますけども、とても手が出らん。持っているお金は十円だった。だからもう幾つでもよかが、その枇杷を十円でそれこそ一つでも二つでもよかけん分けて下さらんですかと言うて相談した。あなた枇杷ば十円がつどん買いに来る者はおりませんよと。
それはそうでしょう、けども何に使いなさるかしらんばってん、しゃっち要りなさるなら落ちてたとがありますと、枇杷のちっとは熟し過ぎたのが、と言うちから皿に丁度一盛り位裏からもって来て下さった。これはもうお金はいらんですばいと言うふうに言われましたけど、まあ十円もって来とりますから十円とって下さいと言ったら、なら貰うとこうと言うて、まあ十円で丁度中皿位の皿一杯の枇杷を、勿論一つ一つに落ちた枇杷でございましたけど、それを頂いて帰って綺麗に洗ってそれをお供えさして頂いた。
本当にまあ出来んながらでもまあ、一生懸命の思いでお供えさせて頂いて、それこそ心行くまで神様にもお礼を申し上げ、心行くまで御霊様にも御挨拶させて頂いとりますときに、はじめてこれが御霊の声だろうと言うものを聞きました。それはもう喜びに溢れた声でした。私はそれ以来御霊様と交流する事が出来るようになりました。今はもうこげん貧乏しょる時じゃから、御霊様も知ってござる、もう今自分が力のない事は神様も知ってあるけん、と言うような事ではいけない事が分かります。
私は昨日、家内が久留米にお供えもの買いに参りましてです、幾らでもよかじゃないか、お前がよかしこ事務所から借りて行きなさい、そしてから、何かおじいちゃんの好きじゃったものをみつくろうて買うてこいと言うて、買いにやらして頂いてから思いました。まあおかげ頂いたもんじゃあるなあと、もうさせて頂こうと思うなら、どげな例えばお祭りでも、ゆうならお供えでもさせてもらえれる。
だからさせて貰える時にするのは当たり前ですよ、そうでしょう信心とは出来ん、出来んけれども、そう止むに止まれんものがそうなさしめる、責めて責めてこの位の事はと言う、それがね私は真心であり一心だと思う。もう自分が家は忙しか事知っちゃるけんでお参りせん、成る程忙しい事は神様が知っちゃるに違いないけれどもね、けれどもいわゆる止むに止まれんと言う心を、そこから絞って行くと言う事が信心なんである。
昨日は神前奉仕が幹三郎の当番でした。一日次々と昼の御祈念、夜の御祈念まあ勤めさして頂いて、それから夜の御祈念も幹三郎が奉仕致しました。私は本当にあの今晩の御霊様も孫の幹三郎の奉仕を受けて、嬉しうありなさろうと思うて感激した。しかも一心、真心いっぱいで拝んでいる姿を見せて頂いて、有り難いことだと思うた。それから下がって、当番の先生が御理解まで修行生達がする事になってますから、お話を皆さんにお取次させて頂いた。そしてこう言う様な事をお話するのです。
私は毎朝親先生のお供をして、三時半に控えに出て参ります。初めの間は何とはなしに生き々として、訳は分からんなりに、何とはなしに有り難いと言う気持ちで、ついて行きよりましたけれども、この頃少しマンネリになつたようです。朝お供させて頂いて三十分間、もう親先生は一日の内で、あの三時半から四時までの御祈念の時間が、私にとっては一番有り難いと、親先生はいわれるけれども、私にとってはその三十分間が一番辛い、睡い、苦しい時ですと言っております。
いうなら泣く泣く辛抱しておる時だと言っております。親先生は一日の中であの三時半から四時までの間が、御神前に出らして頂くあの三十分間という一時を一番尊い有り難い、一日の中で一番有り難いといわれるけれども、私にとってはその三十分が死ぬほど辛いのだ、もう睡り倒れるほど辛い、それでもずーつと親先生の前に座らして頂いて奉仕を続けておるのですけれども、近頃やはり自分がやはりマンネリになっている証拠だと思います、という事を話しております。
私はそれを聞かせて頂きながら、誰だってやはり馴れっこになる、マンネリになる、けれどもマンネリになって、マンネリになったから怠ると言うのではなくて、マンネリにはなっとるけれども、そこん所は辛抱しぬくと言う事は素晴らしいと私は思うた。例えば私の家内の父のご御霊様をです、結婚以来私がいろいろ思いを込めて奉仕させて頂いたが、あの一番貧乏のどん底であった、修行の真っ最中であった時にです、果物屋から十円の枇杷を買わして頂いて、あのとき最高のものであっただろうと私は思うた。
できぬ中から務める、苦しいけれども務める、私はねここん所が力を受ける一番大事なチヤンスを与えられてる時だと思いますね。皆さんがいま本当に難儀を感じられるなら、今こそです普通では出来ない信心修行が出来るときです。皆さんがおかげを頂いてごらんなさい。もう出来ませんだから苦しいね、ない中からお参りをする、たとえ時間のない中からお供えもする、お金もない中から、それこそ身の皮をはぐような信心でも修行でもさして頂いて、神様に真を捧げるという行き方どういうことがです。
私しゃ一番楽に出来るときである。そういう修行が出来る時であると私は思います。それをどうでしょう、もうこげん苦しい事は神様が御承知じゃから、もう御霊さまが知っちゃるからと言うような事で、例えば、なら幹三郎がもうこんなに辛い、私が無理を言いよる訳でも何でもない、だから起こしたっちゃ、起きらんでもかんまん、けれども、私は幹三郎の一生の信心を通してです、後から振り返ってみて、ああまだ自分が若かった、十六か七でお父さんの朝の御祈念について、お供させて頂いて。
あの時は本当に泣こうごと辛かったけれども、あの辛いとこを辛抱したとき、あの時分に力を受けとったじゃろう、おかげを受けとったじゃろうと、思わして頂くけるようなおかげに必ずなる私は思うですね、これが貫かれるときに如何にそこんところを大事にせなければと言うことが分かるでしょうが。それにはですやはりお互いの信心がね、目標がです、折角信心させて貰うならです、信心させて頂いとるから。
その拝詞の中に今は難儀を致しとりますけども、私がおかげを頂いた暁には、合楽の経済は一人ででも持たせて頂ける程しのおかげを頂かして下さい、と言う意味のことが祈念拝詞の中に綴ってある。そういう例えば願いを持たせて頂くことこそです、こういう大きな願いを立てさせて頂いておるから、この位な修行は当たり前じゃろうと言うことになる事だと思うです。
私は、今日は皆さんにここを分かって頂きたいことはです、成る程この神様は、はやる事もなければ終わる事もないという神様だから、そう頂いて何かいつでもおかげが、いよいよの時に頂けると言ったような、安閑としたような、そこに腰掛けたような風がありはしないだろうか、そして一生うだつが上がらんで、信心のある者でも無い者でもおかげはやってあると仰しゃる。ただ信心がなかっても頂く程度のおかげで終わってしまうような事はなかろうかと、と私は今日思わして頂いた。
願っちゃならんちゅう事じゃない、願わにゃ願わにゃ、願って願って願い抜かなければ、いわゆる白い饅寿と黒い饅寿が、一様にここんところは願い、その願いを掛けなければならない。その願いをです、私どもがそれこそお相撲さんが、それこそ弟子入りをする時のように、もう自分は十両なら十両ぐらい成功すればよいとか、もう一生褌担ぎで良かとかいうくらいな、そういう気持ちでは弟子入りせんと思う。
どうでもこうでも、お前は相撲取りになれと言って進められて、本気でいっちょ相撲取りになろうと決心したからには、それこそ末は横綱か大関かと願うだろう。だから修業も又きっかろうけれども、その堪えられん程の修行にでも堪えていく事が出来るのであります。願いをですひとつ、本当に大きな願いを実感として持たして頂けるおかげ、いま私どもが難儀を感じておる、まあどうやらこうやらと言うような時ほどです。
先程から私が家内の父の御霊様に一番どうにも出来ない、もう十円玉一つしかないと言ったような時にです、一生懸命振り絞るようにした、いわばもうおかしいも、恥ずかしいもない、果物屋に行って十円がた綺麗な枇杷じやなかったけれども分けて貰って、これだけはどうでもさして貰わねばと言う止むに止まれんと言う、そういう時代に私は力を受けたと言うなら、力を受けたであろうかと思われる。
ですから、そういう時こそがチヤンスだ、もう四十にも五十にもなって相撲の弟子入りする者がないように、お互い信心の若い時、いうならば、いま難儀を感じておる時、どうかおかげを頂きたいと言う鮮烈なまでの信心が出来ておる時に、そういう大きな願いを立てての信心、そこから天地日月の心になること肝要と仰せられる、天地日月の心にでも本気でならせて頂けれる、取り組ませて頂けれる、おかげが受けられるのは今だ、と言うような気がするんです。
それはやはり辛いことである、辛い事であるけれども後で振り返ってみて、あ-あの時分に力を受けたと言えば受けたんだなあ、受けとったんだなあとおもうようなおかげをです、信心がだら-っとしたような信心が長年続く、といのではなくそういう信心は何時までも続くものではありません。やあ、という時に出来るんです。ほんにあの時分考えてみると、ようまあ、あげな修業が出来よった、あの位の信心が出来よったと、今こそしなければならない時じゃないでしょうか、合楽の皆さんは。
昨日、末永さんから西岡さん宛てに手紙が来ておる、いろいろとお知らせ受けた事を、親先生にお伺いしてくれと言う事であった。その事をお伺いさせて頂きよったら、清水の次郎長を頂いた。だから私はその答えに書いてある手紙の端に書いてやった。街道一を願えと、次には力を頂くこと一つに専念せよと書いてやった。そしたら神様から、フレーフレーと言う言葉を頂いた。もう私は感激しました。
いま一生懸命本気で金光様の先生にでもなろうかと、いうならばそれこそ日本一の先生を目指せと言うのである。神様がねそれこそフレーフレーと言うて、フレーフレーガンバレーと応援をしてくださっておる、その事も一緒に書いてやった。だからそこに街道一を願わにゃいけん。例えば街道一の親分の清水の次郎長がです、成る程若い時には苦難、苦行いたしましたでしょう、けれどもなら皆からさあ親分、清水の二十八人衆ですか、何かが揃うた時分にはもう親分、親分でそんなに難儀はしとらんでしょうが。
だから本当の修行というのは若い時分、あの時分にしとかにゃする時はない、今お互いの信心が、今が自分の修行の真っ最中じゃろうかと思うておるならね、今こそがそういう力を与えられるチヤンスだと思うてね、そこを本気でふん切った修行、そしてここば抜け出りゃそれがよいと言うそんな甘い、小さい信心じゃなくてです、街道一を願わして頂けれる程しの願いを立てての、信心でなからなければならないのでございます。
どうぞ。